2011年5月24日火曜日

Most Influential Hairstyles


『この数十年で最も影響を及ぼしたヘアスタイル』というのが、イギリスのタブロイド紙Daily Mailにより発表されました。
第一位は、1961年の映画『ティファニーで朝食を』に出演したオードリーヘップバーンのアップスタイルでした。これは今でもイギリスのへアサロンで最も注文の多いアップスタイルとのこと。時代が移り変わっても、このシックなフレンチテイストのヘアスタイルに憧れる女性が多いのですね。

第二位と第三位はマリリンモンローとツイッギーの髪型。

マリリンモンローの根元からかかったカールのプラチナブロンドヘアーは、確かに今緩いカールのロングヘアーやストレートヘアーをする女性が多い中で、独特なセクシーさを醸し出しています。

そして、イギリス人の超足長モデル、ツイッギーが上位に登場したのはちょっと意外でした。未だ彼女がイギリス女性のアイコン的存在であることを証明しているといえますね。彼女の艶やかでぴったりと撫で付けたヘアが、子顔を意識する現代女性にもウケるのかしら。


それよりも、私がいちばん意外だったのは、60年代のモデルや女優がすべて上位3位にランクインした事。確かに最近、社会的に影響を及ぼすほどの個性のあるヘアスタイルをする人は少なくなりました。

これより下にランクされたものは、冗談ぽいのもあります。 第四位は、ディズニー映画『リトルマーメイド』の人魚アリエル。 第五位は、テレビシリーズ『フレンズ』に出ていた、レイチェル役のジェニファー アニストンのレイヤードヘアー。これは番組が終わった6年後の2010年でも、ヘアサロンで一番注文の多かったカットだそうです。
その他には、ビクトリア ベッカムのボブや、R&B歌手のリアナのレッドヘア(赤毛)、そして、映画『GI ジェーン』に出たデミ ムーアのスキンヘッドなどでした。

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ちなみに、ここからは私のランキング。
私もオードリーヘップバーンのヘアスタイルがナンバーワンに入ります。彼女のどのヘアスタイルも好きですが、特に下のまとめ方が好きです。


そして、女優ハル ベリーの動きのあるベリーショートが私の第二位です。



第三位は、オーストラリアの元モデルで、今は下着メーカーの実業家エル マクファーソン。ちなみに、47才でこの髪のボリュームときれいさです。


第四位は、カントリー歌手のテイラースウィフト。


最後に、レディーガガのヘアスタイルが第五位。ファッションごとにヘアスタイルを変えるところが好きです。下の映像のはおそらくカツラと思いますが、あまりにも似合っていて格好いいので、思わず、「いいカツラですね〜!」と晴れ晴れしく言いたくなります。

2011年5月14日土曜日

Grace Kelly

"My mother was photographed countless times, by the world's best photographer's. However, what was most entrancing about her was her compassion and generosity of spirit. She didn't pose in order to become beautiful. She simply was beautiful." 
His Serene Highness Prince Albert II (referring to the book Grace Kelly A life In Pictures)

”私の母は世界の最も優れた写真家達から数えきれないほどの写真を撮影されました。しかしながら、母を見て最もうっとりさせるものー それは、彼女の心に宿る、人を助けたいという深い思いやりと寛容さです。母は素晴らしく見せるためにカメラにポーズをとったことはありませんでした。ただ、そのままで美しかったのです。”

モナコ公アルベール二世 (Grace Kelly A Life In Picturesについての言及)



This print is available at Celebrity Art Prints.com.


モナコ公妃 グレースケリーの生涯
参考資料:A Life In Pictures



*女優 グレースケリーの生涯はThe Beauty of Artでご紹介しています


モナコ公レーニエとグレースの初対面から数ヶ月が過ぎた頃、とうとうレーニエが教会の神父タッカーに思いを打ち明けた。ブロンドのフレッシュフェイス、グレースケリーが自分の側にいる光景が頭からひとときも離れないと。アメリカ人神父はレーニエの深い思いを綴った手紙をグレースの元に送った。グレースからも直ちに返事が来た。ー ”私も次回モナコに訪れる際、レーニエ公にお会いできることを楽しみにしています”。


婚約

返事を受け取ったタッカーは喜んで、直ちにレーニエ公を連れてのアメリカ旅行を手配した。1955年クリスマスの11日前にニューヨークに到着。未だハリウッドでの映画撮影中であったグレースだが、実家のあるフィラデルフィアでクリスマスを過ごすため帰って来ていた。グレースはそこでレーニエと落ち合い、ディナーに招待したのだ。過去のグレースの恋愛関係にことごとく立ち入って、全て終わりに導いたケリー家との”運命”のディナーだ。しかし、レーニエはケリー家に気に入られる数十枚の切り札を持っていた。熱心なカトリック教徒であること、熱狂的なスポーツ愛好家であること、家族を第一に重要視する家庭的な男であることなどだ。
ふたりはその後ニューヨークに戻り、再会してからわずか1週間後のニューイヤーズイブに、レーニエはプロポーズに踏み切った。

グレースは両親にその喜びの報告をしにフィラデルフィアに帰ったのだが、驚くことに、ふたりは気乗りしなかった。神父タッカーに干渉に入ってもらい、レーニエの「素晴らしい夫になる」という言葉に、忠誠を誓うよう求めたのである。
1956年1月5日、晴れて婚約を発表したふたりのニュースは、アメリカ全土とモナコを駆け巡った。グレースは電報にて当時恋仲にあったオーモンに報告し、オーモンは彼女の幸せを大いに喜んでくれたという。
喜びに包まれる両国民、しかしアメリカ国民にとっては最も気になる思案がめぐる。人気絶頂のなかで、果たしてグレースケリーはキャリアを断念するのだろうかと。


婚約後、最後の出演映画になった『上流社会』では、婚約指輪をつけたまま出演したいとのグレースケリーの要望があった。この映画で初めて生の歌声も披露した。その曲名『True Love』はグレースの実生活とも重なり、言うまでもなく大ヒットした。永遠にハリウッドから距離を置く新たな人生のページが今、この瞬間からめくられようとしていた。

1956年4月12日、モナコの港へ未来のプリンセスを乗せた船が到着した。モナコまでの航海の中で、頭に巡った家族や親しい者達との別れ、王室での生活、不安も何もかもが掻き消されるかのように、入港するやいなや、船舶の汽笛や教会の鐘の高鳴りが聞こえ始め、降り立つと5000人のモナコ国民からの歓声を浴び迎え入れられた。

まだ色を塗っていない手がなんとなく大きく見えてきて、これひとつで絵が台無しになると考えていたため、ギリギリまで大きすぎないかと迷っていました。


世紀の結婚と母グレースケリー


到着してから6日間、心ゆくまで夢のようなカクテルパーティーに夜会を楽しんだのだが、式が近づくにつれ将来の不安が増していく。船の長旅の疲れがとれぬままに社交用事が次々と重なって、数日で5キロも体重が落ちた。
1956年4月19日、世界中が注目するビッグイベント”世紀の結婚”が盛大に執り行なわれた。


結婚後はフランス語の習得に励むのだが、これには大変骨を折ったという。また日が経つにつれ、少しずつホームシックを感じるようになる。そこにさらに追い討ちをかけるかのように、メディアからのひそかな詮索や、モナコ住民からの跡取りをいつ生むのかという期待、元女優というステイタスを非難されていることに気付き始めると、美しいグレースの顔が陰り始めた。
この押しつぶされそうな環境の中では、自らの存在を城の中で位置づけることが重要だと感じたグレースは、城の部屋の改装をし始め、自分の好きな置物などを部屋中に散りばめることで安らぎの場を築いた。

間もなくして、初めての子供を妊娠していることが分かると、モナコの人々は男の子であることを期待し喜びに湧いた。1957年の1月、住民の期待空しく、女児プリンセスカロリーヌが誕生した。初産で喜びに満ちあふれたグレースは、赤ん坊のニーズに応えるように誰にも育児部屋へ入ることを許さなかったという。それからすぐ出産後の体が完全に回復する間もなく、ふたり目を妊娠。1958年の3月、住民待望の男児アルベールが誕生すると、国は熱狂的な歓喜に包まれた。
しかし、アルベールの誕生後、グレースに二度目の憂鬱が襲った。これによって、またもや城の改装に取り掛かり、スイミングプールやゲームルームなどを新たに取り付け、それどころか、レーニエの購入した古城を細心の注意を払い、全て建て直したのである。今やグレースの心のよりどころとなった”幸福の城”は、生活における心の乱れから一家を保護するだけでなく、パパラッチに対する悩みも解消させた。

この前の段階よりも、洋服のレース部分に陰が入っています。

子供達は母グレースのすすめで、小さな頃からあらゆるスポーツを積極的に行った。グレースの母親の教えー”スポーツの規則に従い自制心を身に付けた者は、ほかより悪事を働かない”が、グレースの教育方針の基盤になっていたのだ。またグレース自身がダンス好きであったため、ダンスレッスンも城内で行われていた。子供を遊ばせる時は一家で牧場に出向くなどし、城内にはメリーゴーランドもあったという。1965年の2月には3番目の子供ステファニーが誕生した。
アルベールは父の公位継承を運命付けられているが、ふたりのプリンセスにはグレース自身もそう教育されたように、女性らしいマナーと裁縫、料理を熱心に教えた。

前回の投稿で背景はバラだけになりそうだと言いましたが、結局モナコの街並も付け足しました。


慈善活動


3人の子育てに励むあいだ、モナコ赤十字社の総裁に就任するなどし、他のチャリティ活動にも最前線で関わった。
どんな小さな助けの要望にも一度もノーと言わない姿勢で取り組み、自然災害の被災者救済から、貧困に苦しむ人々に対する改善活動、老人福祉、様々な理由で生活保護を必要とする若い女性や子供に家や避難所を設けるまで、あらゆる慈善活動を行った。1977年には飢餓に対する取り組みによって、国連からの表彰も受けた。
世界中から毎日数えきれないほど送られてくる手紙にも、直接ひとりひとりに返事を書いて親しみ深い態度で以て応えるなど、公務以外の自分の時間の全てを人々の助けに費やした。
しかし、そんな忙しいグレースの心にはいつも虚無感があった。公妃になってからも、映画に対する情熱が消えなかったからだ。結婚後は映画製作会社より映画出演の依頼が度々入っても断わってきたのだが、ついに心から慕っていたアルフレッドヒッチコック監督からの映画出演オファーが入ったとき、夫レーニエの承諾を得て受け入れたのである。
このニュースを聞いたモナコ住民の怒りは爆発した。「公妃が映画に出るなどふさわしい行動ではない」と激しく反発し、ついには住民がカトリック教会総本山のバチカンにまで出演承諾を破棄するよう説得して欲しいと懇願する結末になったのである。大多数の意見に圧され、ヒッチコック監督の映画出演への夢は空しく消えていった。


晩年と不慮の死


1979年50才になったグレースは、少しずつ内に秘めた情熱が消えていくのを感じながらも、今までと変わらずに美しく輝いていた。公国の代表として、妻として、母として身を捧げて来た長い人生。もはや子供達は皆立派に成長し、グレースの手を離れていく。今では黄金色に輝く城の部屋にいると、寂しさがひどく突き刺さる。それどころか、引き続く風邪と気管支炎でグレースの体は弱くなっていた。熱心なカトリック教徒であった彼女は、宗教の中に安らぎを探した。

1982年9月14日、ローヴァー3500を運転し、下の娘ステファニーを連れて山峡にドライブに出掛けた。崖っぷちの運転には慣れていたはずのグレースだが、ハンドルのコントロールを失い、崖40メートル下まで車が数十回横転しながら転落、炎上した。ステファニーもグレースも生きて病院に運ばれ、幸いステファニーは命を取り留めたのだが、グレースは同日病院で亡くなった。52才であった。

2011年5月4日水曜日

Work in Progress


先日の英国のロイヤルウェディングに魅了され、ただいまこんな人を描いています。とはいえ、キャサリン妃本人ではありません。元モナコ公妃グレースケリーです。私は、英国王子の結婚式をライブで観ながら、家に飾っていた淡いピンクのバラをスケッチし始め、この絵を描き始めました。そして偶然にも、翌朝こちらオーストラリアのモーニングショーで、キャサリン妃の着たウェディングドレスが故モナコ公妃のウェディングドレスと非常に似ていたと話題になりました。モナコ王子とハリウッド女優のロイヤルカップル誕生は1956年のことです。
55年も前のドレスに似せたにもかかわらず、キャサリン妃のドレスのデザインは今の時代に新鮮にすら見えました。


グレースケリーの胸の詰まったぴったりとしたレースのトップと光沢あるハイウエストのタフタスカートとの相性が抜群で、個人的にはキャサリン妃のドレスよりも数倍好きなデザインです。

さて、絵どうなりますか、お楽しみに。
バラを描きながらモナコの街並みを付け足そうと思っていましたが、背後は結局バラでいっぱいになってしまいました。