2011年5月14日土曜日

Grace Kelly

"My mother was photographed countless times, by the world's best photographer's. However, what was most entrancing about her was her compassion and generosity of spirit. She didn't pose in order to become beautiful. She simply was beautiful." 
His Serene Highness Prince Albert II (referring to the book Grace Kelly A life In Pictures)

”私の母は世界の最も優れた写真家達から数えきれないほどの写真を撮影されました。しかしながら、母を見て最もうっとりさせるものー それは、彼女の心に宿る、人を助けたいという深い思いやりと寛容さです。母は素晴らしく見せるためにカメラにポーズをとったことはありませんでした。ただ、そのままで美しかったのです。”

モナコ公アルベール二世 (Grace Kelly A Life In Picturesについての言及)



This print is available at Celebrity Art Prints.com.


モナコ公妃 グレースケリーの生涯
参考資料:A Life In Pictures



*女優 グレースケリーの生涯はThe Beauty of Artでご紹介しています


モナコ公レーニエとグレースの初対面から数ヶ月が過ぎた頃、とうとうレーニエが教会の神父タッカーに思いを打ち明けた。ブロンドのフレッシュフェイス、グレースケリーが自分の側にいる光景が頭からひとときも離れないと。アメリカ人神父はレーニエの深い思いを綴った手紙をグレースの元に送った。グレースからも直ちに返事が来た。ー ”私も次回モナコに訪れる際、レーニエ公にお会いできることを楽しみにしています”。


婚約

返事を受け取ったタッカーは喜んで、直ちにレーニエ公を連れてのアメリカ旅行を手配した。1955年クリスマスの11日前にニューヨークに到着。未だハリウッドでの映画撮影中であったグレースだが、実家のあるフィラデルフィアでクリスマスを過ごすため帰って来ていた。グレースはそこでレーニエと落ち合い、ディナーに招待したのだ。過去のグレースの恋愛関係にことごとく立ち入って、全て終わりに導いたケリー家との”運命”のディナーだ。しかし、レーニエはケリー家に気に入られる数十枚の切り札を持っていた。熱心なカトリック教徒であること、熱狂的なスポーツ愛好家であること、家族を第一に重要視する家庭的な男であることなどだ。
ふたりはその後ニューヨークに戻り、再会してからわずか1週間後のニューイヤーズイブに、レーニエはプロポーズに踏み切った。

グレースは両親にその喜びの報告をしにフィラデルフィアに帰ったのだが、驚くことに、ふたりは気乗りしなかった。神父タッカーに干渉に入ってもらい、レーニエの「素晴らしい夫になる」という言葉に、忠誠を誓うよう求めたのである。
1956年1月5日、晴れて婚約を発表したふたりのニュースは、アメリカ全土とモナコを駆け巡った。グレースは電報にて当時恋仲にあったオーモンに報告し、オーモンは彼女の幸せを大いに喜んでくれたという。
喜びに包まれる両国民、しかしアメリカ国民にとっては最も気になる思案がめぐる。人気絶頂のなかで、果たしてグレースケリーはキャリアを断念するのだろうかと。


婚約後、最後の出演映画になった『上流社会』では、婚約指輪をつけたまま出演したいとのグレースケリーの要望があった。この映画で初めて生の歌声も披露した。その曲名『True Love』はグレースの実生活とも重なり、言うまでもなく大ヒットした。永遠にハリウッドから距離を置く新たな人生のページが今、この瞬間からめくられようとしていた。

1956年4月12日、モナコの港へ未来のプリンセスを乗せた船が到着した。モナコまでの航海の中で、頭に巡った家族や親しい者達との別れ、王室での生活、不安も何もかもが掻き消されるかのように、入港するやいなや、船舶の汽笛や教会の鐘の高鳴りが聞こえ始め、降り立つと5000人のモナコ国民からの歓声を浴び迎え入れられた。

まだ色を塗っていない手がなんとなく大きく見えてきて、これひとつで絵が台無しになると考えていたため、ギリギリまで大きすぎないかと迷っていました。


世紀の結婚と母グレースケリー


到着してから6日間、心ゆくまで夢のようなカクテルパーティーに夜会を楽しんだのだが、式が近づくにつれ将来の不安が増していく。船の長旅の疲れがとれぬままに社交用事が次々と重なって、数日で5キロも体重が落ちた。
1956年4月19日、世界中が注目するビッグイベント”世紀の結婚”が盛大に執り行なわれた。


結婚後はフランス語の習得に励むのだが、これには大変骨を折ったという。また日が経つにつれ、少しずつホームシックを感じるようになる。そこにさらに追い討ちをかけるかのように、メディアからのひそかな詮索や、モナコ住民からの跡取りをいつ生むのかという期待、元女優というステイタスを非難されていることに気付き始めると、美しいグレースの顔が陰り始めた。
この押しつぶされそうな環境の中では、自らの存在を城の中で位置づけることが重要だと感じたグレースは、城の部屋の改装をし始め、自分の好きな置物などを部屋中に散りばめることで安らぎの場を築いた。

間もなくして、初めての子供を妊娠していることが分かると、モナコの人々は男の子であることを期待し喜びに湧いた。1957年の1月、住民の期待空しく、女児プリンセスカロリーヌが誕生した。初産で喜びに満ちあふれたグレースは、赤ん坊のニーズに応えるように誰にも育児部屋へ入ることを許さなかったという。それからすぐ出産後の体が完全に回復する間もなく、ふたり目を妊娠。1958年の3月、住民待望の男児アルベールが誕生すると、国は熱狂的な歓喜に包まれた。
しかし、アルベールの誕生後、グレースに二度目の憂鬱が襲った。これによって、またもや城の改装に取り掛かり、スイミングプールやゲームルームなどを新たに取り付け、それどころか、レーニエの購入した古城を細心の注意を払い、全て建て直したのである。今やグレースの心のよりどころとなった”幸福の城”は、生活における心の乱れから一家を保護するだけでなく、パパラッチに対する悩みも解消させた。

この前の段階よりも、洋服のレース部分に陰が入っています。

子供達は母グレースのすすめで、小さな頃からあらゆるスポーツを積極的に行った。グレースの母親の教えー”スポーツの規則に従い自制心を身に付けた者は、ほかより悪事を働かない”が、グレースの教育方針の基盤になっていたのだ。またグレース自身がダンス好きであったため、ダンスレッスンも城内で行われていた。子供を遊ばせる時は一家で牧場に出向くなどし、城内にはメリーゴーランドもあったという。1965年の2月には3番目の子供ステファニーが誕生した。
アルベールは父の公位継承を運命付けられているが、ふたりのプリンセスにはグレース自身もそう教育されたように、女性らしいマナーと裁縫、料理を熱心に教えた。

前回の投稿で背景はバラだけになりそうだと言いましたが、結局モナコの街並も付け足しました。


慈善活動


3人の子育てに励むあいだ、モナコ赤十字社の総裁に就任するなどし、他のチャリティ活動にも最前線で関わった。
どんな小さな助けの要望にも一度もノーと言わない姿勢で取り組み、自然災害の被災者救済から、貧困に苦しむ人々に対する改善活動、老人福祉、様々な理由で生活保護を必要とする若い女性や子供に家や避難所を設けるまで、あらゆる慈善活動を行った。1977年には飢餓に対する取り組みによって、国連からの表彰も受けた。
世界中から毎日数えきれないほど送られてくる手紙にも、直接ひとりひとりに返事を書いて親しみ深い態度で以て応えるなど、公務以外の自分の時間の全てを人々の助けに費やした。
しかし、そんな忙しいグレースの心にはいつも虚無感があった。公妃になってからも、映画に対する情熱が消えなかったからだ。結婚後は映画製作会社より映画出演の依頼が度々入っても断わってきたのだが、ついに心から慕っていたアルフレッドヒッチコック監督からの映画出演オファーが入ったとき、夫レーニエの承諾を得て受け入れたのである。
このニュースを聞いたモナコ住民の怒りは爆発した。「公妃が映画に出るなどふさわしい行動ではない」と激しく反発し、ついには住民がカトリック教会総本山のバチカンにまで出演承諾を破棄するよう説得して欲しいと懇願する結末になったのである。大多数の意見に圧され、ヒッチコック監督の映画出演への夢は空しく消えていった。


晩年と不慮の死


1979年50才になったグレースは、少しずつ内に秘めた情熱が消えていくのを感じながらも、今までと変わらずに美しく輝いていた。公国の代表として、妻として、母として身を捧げて来た長い人生。もはや子供達は皆立派に成長し、グレースの手を離れていく。今では黄金色に輝く城の部屋にいると、寂しさがひどく突き刺さる。それどころか、引き続く風邪と気管支炎でグレースの体は弱くなっていた。熱心なカトリック教徒であった彼女は、宗教の中に安らぎを探した。

1982年9月14日、ローヴァー3500を運転し、下の娘ステファニーを連れて山峡にドライブに出掛けた。崖っぷちの運転には慣れていたはずのグレースだが、ハンドルのコントロールを失い、崖40メートル下まで車が数十回横転しながら転落、炎上した。ステファニーもグレースも生きて病院に運ばれ、幸いステファニーは命を取り留めたのだが、グレースは同日病院で亡くなった。52才であった。

7 件のコメント:

  1. the beauty of artの方から続けて、グレースケリーの人生を追いました。
    女優から王妃、という華やかなイメージばかりが先行していましたが、こうして見ると陰の部分も多く抱えた女性だったんですね。
    しかし、陰あってこそ、光の部分が映えるというもの。
    彼女の魅力は少しも損なわれることはありませんね。
    素敵なお話でした!

    今は5月、ちょうどモナコはバラの季節です。
    グレースケリーのお墓の前には、献花が途絶えることはないんですよ。その中には、この絵のような美しいバラもあるに違いありません。

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  2. ピッコラさん

    こちらこそ、素敵なお言葉を聞かせていただいて感激です!
    これは私の家に飾っていたバラでしたが、出来上がると、偶然にもグレースケリーに捧げられたバラ、「プリンセス ド モナコ」というモナコ国旗の2色(紅白)で色付けられたバラに、ちょっとイメージが似ていました。モナコとバラ、本当に優雅なイメージですね。

    グレースケリーはある方のブログによりますと、レーニエ公の浮気にも悩んでいたとか。色々と精神的に苦労され、晩年はあの端整な顔に寂し気な表情がのって、わたしにはそれが最も印象的でした。

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  3. ついつい読み入ってしまいました。

    彼女の両親は娘を結婚させたくなかったんでしょうか?

    しかし

    当時恋仲にあったオーモンに報告し、オーモンは彼女の幸せを大いに喜んでくれたという。

    というところ。
    2人は友人であったということですから、お互いかなり理解しあっていたということなんでしょうね。オーモン男前だと思います。 

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  4. コウスケさん

    長い記事でしたが、読んでくださってどうもありがとうございました!

    グレースの両親は自分たちも大富豪であったことから、娘にはふさわしい人をと思っていたのではないでしょうかね?お金持ちほど子供の結婚に立ち入るものだとよく聞きます。確かに、グレースの容姿からして、随分前から王室に入る品格が備わっていたように思いますから、彼女自身が運命を背負っていたのかもしれませんね。

    コウスケさんのおっしゃるように、オーモンとは恋をも超えた深い友情で結ばれていたのではないかと私も思います。
    オーモンの紳士的で包容力のある行動と人柄がちらほら感じられましたよね!
    それに、さすがに付き合っていた彼女から一国のプリンスにプロポーズされたことを告白されると、降参してしまうのではないでしょうか(笑)。彼は機転が利いて頭もよさそうですし、ディナーの日からこうなることを予想していたかもしれません。
    それにしても、ソウルメイトってよく言いますが、このことを言うのでしょうね!

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  5. コウスケさん

    言い忘れましたが、グレースの両親はレーニエとの結婚に対しては、レーニエにお金の不自由がない事が明らかだったので、真実の愛を求めたんだと思います。

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  6. なるほど。グレースは両親にとても大事にされていたんですね。王子にプロポーズされてイマイチ気乗りしないって凄すぎだろと思いましたが、そういう人だからこその心配もありますよね。親にとっては子はいつまでも可愛いってことですね。

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  7. コウスケさん

    随分と可愛がられたみたいですね。王子でも気乗りしなかったというのは、相当立派な親であったということでしょうね。はっきり言って、これは王子より優位に立っている事を意味します!
    さすが金メダルまでとったアスリート、執念と粘りが普通と違います!最後まで子供を守り抜いた感じがします。

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